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オスリャービャ(ロシア語:アスリャービャ)〔ポーランド語では「」と表記されるため、日本語でもしばしばこれをローマ字読みして「オスラビア」と書くことがある。ポーランド語名の日本語表記では「オスラビャ」、ポーランド語読みを日本語で表せば「オスラービャ」となる。ここでは艦名の由来となった修道士の名前表記に順ずる。〕は、ロシア帝国の建造した戦艦で、ペレスヴェート級戦艦の二番艦。ロシア海軍では艦隊装甲艦()に分類された。艦名はクリコヴォの戦いにおけるロシアの英雄「ロジオン・オスリャービャ」に因んだもので、1874年に除籍された先代のフリゲートから受け継いだ。艦名は、同型艦のペレスヴェートと対になるものである〔15世紀の物語『ママイの大合戦についての伝説(')』によれば、モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコイに仕えたボヤーリン(世襲貴族)であったロジオン・オスリャービャとアレクサンドル・ペレスヴェートは同郷人であり、ともに至聖三者聖セルギイ大修道院の修道士であったが、クリコヴォの戦いに参加し活躍したと伝えられる。ロシア海軍の艦艇では、この2人の名は対になって艦名に用いられることが多い〕。日本海海戦で戦没した最初の戦艦となった。''アスリャービャ)〔ポーランド語では「」と表記されるため、日本語でもしばしばこれをローマ字読みして「オスラビア」と書くことがある。ポーランド語名の日本語表記では「オスラビャ」、ポーランド語読みを日本語で表せば「オスラービャ」となる。ここでは艦名の由来となった修道士の名前表記に順ずる。〕は、ロシア帝国の建造した戦艦で、ペレスヴェート級戦艦の二番艦。ロシア海軍では艦隊装甲艦()に分類された。艦名はクリコヴォの戦いにおけるロシアの英雄「ロジオン・オスリャービャ」に因んだもので、1874年に除籍された先代のフリゲートから受け継いだ。艦名は、同型艦のペレスヴェートと対になるものである〔15世紀の物語『ママイの大合戦についての伝説(')』によれば、モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコイに仕えたボヤーリン(世襲貴族)であったロジオン・オスリャービャとアレクサンドル・ペレスヴェートは同郷人であり、ともに至聖三者聖セルギイ大修道院の修道士であったが、クリコヴォの戦いに参加し活躍したと伝えられる。ロシア海軍の艦艇では、この2人の名は対になって艦名に用いられることが多い〕。日本海海戦で戦没した最初の戦艦となった。''」と表記されるため、日本語でもしばしばこれをローマ字読みして「オスラビア」と書くことがある。ポーランド語名の日本語表記では「オスラビャ」、ポーランド語読みを日本語で表せば「オスラービャ」となる。ここでは艦名の由来となった修道士の名前表記に順ずる。〕は、ロシア帝国の建造した戦艦で、ペレスヴェート級戦艦の二番艦。ロシア海軍では艦隊装甲艦()に分類された。艦名はクリコヴォの戦いにおけるロシアの英雄「ロジオン・オスリャービャ」に因んだもので、1874年に除籍された先代のフリゲートから受け継いだ。艦名は、同型艦のペレスヴェートと対になるものである〔15世紀の物語『ママイの大合戦についての伝説(')』によれば、モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコイに仕えたボヤーリン(世襲貴族)であったロジオン・オスリャービャとアレクサンドル・ペレスヴェートは同郷人であり、ともに至聖三者聖セルギイ大修道院の修道士であったが、クリコヴォの戦いに参加し活躍したと伝えられる。ロシア海軍の艦艇では、この2人の名は対になって艦名に用いられることが多い〕。日本海海戦で戦没した最初の戦艦となった。)』によれば、モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコイに仕えたボヤーリン(世襲貴族)であったロジオン・オスリャービャとアレクサンドル・ペレスヴェートは同郷人であり、ともに至聖三者聖セルギイ大修道院の修道士であったが、クリコヴォの戦いに参加し活躍したと伝えられる。ロシア海軍の艦艇では、この2人の名は対になって艦名に用いられることが多い〕。日本海海戦で戦没した最初の戦艦となった。 == 概要 == オスリャービャは、ペレスヴェート級戦艦の2番艦として1895年度の建艦計画で発注された。1895年11月22日〔当時ロシアで使用していたユリウス暦では11月9日。〕にサンクトペテルブルクの新海軍工廠で起工、1898年10月27日に進水し、1901年8月に竣工した。建造費は11.34 ルーブリであった。 日露戦争開戦直前、オスリャービャは防護巡洋艦アヴローラなどを伴いバルト海から旅順へ向かう航海の途中であったが、故障などで地中海に釘付けとなっていた。その頃ちょうど日本海軍の新造装甲巡洋艦である春日と日進がイタリアから日本に向けて航海していたため、お互いに警戒し合う状態となっていた。その後開戦となり旅順への合流は不可能としてバルト海へ呼び戻された。そしてオスリャービャは大佐の指揮の下第2太平洋艦隊(日本側での通称バルチック艦隊)に編入され、第2装甲艦隊司令官ドミトリー・フェルケルザム海軍少将が乗艦する旗艦となった。オスリャービャは、艦隊の中での砲術部門における優秀艦に選ばれた。オスリャービャは、第2装甲艦隊所属となった戦艦シソイ・ヴェリキィー、ナヴァリン、装甲巡洋艦アドミラール・ナヒーモフを率い、戦域を目指した。 戦闘を前に、艦では過積載により主装甲帯が海面下に没するという状態が生じていた。このことが、オスリャービャの運命を決定付けることとなった。1905年5月24日〔ユリウス暦では5月11日。〕にはフェリケルザムが病により没したが、そのことは全艦隊に伏せられ、将官旗は降ろされなかった。 5月27日〔ユリウス暦では5月14日。〕、対馬海峡においてオスリャービャは第2装甲艦隊の旗艦として三列縦隊のうちの左翼先頭にいた。海戦の始まりにおいてオスリャービャは日本側の戦艦と装甲巡洋艦計12隻のうちの7隻による集中砲火を一身に浴びることとなった。これは戦隊の先頭艦を集中攻撃する日本側の方針(丁字戦法)や、三本煙突で識別しやすかったことが原因とされている。このときは中央の列にいた第1装甲艦隊の最後尾にあり、ほぼ並走していた戦艦オリョールの真後ろにつくべく速度を落としていたため(機関を停止していたとする記録もある)、多数の直撃弾を浴びてしまった。まもなく艦首の火砲はすべて使用不能となり、前部艦橋は炎に包まれた。艦首は傾斜を増し、それは前を走るオリョールの艦尾の12インチ砲塔からオスリャービャの艦尾に至るまでの全甲板が見渡せたほどであった。14時45分には、日本軍艦の集中砲火により艦首装甲砲座部分に大きな弾孔を穿たれ、オスリャービャは戦列から落伍した。艦首および左舷は大きく傾斜し、左舷は落伍ののち10分で水没した。15時10分には日本軍がオスリャービャの沈没を確認し、オスリャービャは日本海海戦で戦没した最初の戦艦となった。 515名近くが戦死し、その中には艦橋を退くことを拒んだベール艦長も含まれた。第1水雷艇隊の駆逐艦が救助に駆けつけ、250名がブイヌイに、10名ずつがブラーヴィイとブィーストルイに救助された。その後、ブラーヴイはウラジオストクへ帰り着くことができたが、他の2 隻は失われた。ブーイヌイは乗員の手によって自沈、ブィーストルイは防護巡洋艦スヴェトラーナとともに戦線を離脱、日本の防護巡洋艦新高の追撃を交わし、朝鮮半島沿岸で乗員の手によって爆破された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「オスリャービャ (戦艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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